2010年12月21日 18:36
在日米軍基地の移設問題に代表されるように、様々な苦しみを抱える沖縄。しかし沖縄の人々の想いと苦しみは、400年の歴史を遡らなければ見えてこない。
江戸時代、幕府の威を借りた薩摩藩が武力によって琉球王国を攻略したことから、今日に続く琉球(沖縄)と日本の関係は始まる。薩摩は琉球を明との交流の道具として利用しようとする一方、「異国」として「江戸上り」を強要する。琉球は中国と日本に服属する不思議な「日本の中の異国」となるのである。その後、日本は近代国家になる際に琉球処分を行い、沖縄県を設置し琉球王朝は解体された。
番組では、沖縄が苦しい歴史を背負うに至ったのはなぜか。何が出発点で、どのように今に受け継がれてきたのかを、琉球沖縄と日本の関わりの中からみていく。
第4回(最終回)は、
戦後、米軍占領下におかれた沖縄。米軍機の墜落など度重なる基地被害に抵抗運動が繰り返される中で、1960年沖縄県祖国復帰協議会が誕生。
1968年には初の公選によって行政主席となった屋良は、沖縄の「即時、無条件、全面返還」をスローガンに日本政府への働きかけを続けた。69年11月、日米共同宣言で沖縄の日本への返還が約束されたが、それは基地の存在は曖昧としたもので、県民の要求からかけ離れたものだった。1971年、国会では沖縄返還協定批准の採決を迎えた。屋良は県民の要求書を携えて国会に向かうが、その時、衆議院では強行採決が行われていた。翌年、初代の沖縄県知事となった屋良は「米軍基地の問題を始め、色々な問題をもちこんでの復帰です。これからも厳しさが続き、新しい困難が続くかもしれませんが、自らの運命を開拓し、歴史を創造しなけれぱなりません」と演説した。 屋良朝苗の行動と苦渋の決断を軸に、「沖縄返還」の実態を描く。
(NHK番組紹介より)
憲法九条をもつ日本国憲法が施行された1947(昭和22)年5月3日の3日後の6日、昭和天皇とマッカーサーとの4回目の会談が行われた。 この会見から5ヶ月後の1947(昭和22)年9月、昭和天皇は、アメリカによる沖縄の軍事占領は「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクション」の中で行われるべきだとした、いわゆる「沖縄メッセージ」を出したのである(進藤栄一「分割された領土―沖縄、千島、そして安保」『世界』、1979.4)。それは7月4日のアメリカ独立記念日に、マッカーサーが「日本は共産主義進出阻止の防壁」という声明を出したことと呼応していた。
(沖縄返還の2年前) 1970(昭和45)年4月24日、沖縄代表の国政参加特別措置法成立。11月15日、国政参加選挙が行われ、革新共闘の推す安里積千代、瀬長亀次郎、上原康助(衆院)、喜屋武真栄(参院)四人が全員当選した。
よくいわれる本土と沖縄の格差は、その異常な姿から生まれてきたものである。せんじ詰めてみれば、物心両面の格差は、戦後処理の観点から取り上げなければならない諸問題である。(屋良朝苗回顧録「さいごに」より)