2015年06月02日 23:53
沖縄タイムス6/2 大弦小弦より
国の誤った政策が引き起こした、ハンセン病の悲劇を伝える沖縄愛楽園交流会館(名護市)が1日開館した。人を人とも思わぬ、すさまじい人権侵害の事実をつまびらかにする歴史資料館だ
当初、会館名は「社会交流会館」だった。待ち伏せまでされ家族と引き離され、トラックや船で運ばれ塀の中に閉じ込められた人々は、園の外を「社会」と呼んだ
だが開館に向けて話し合ってきた委員らは、国が勧めた「社会交流会館」の名称から「社会」を抜いた。「何が、どこが社会なのか。中も外も平等なんだ」。同園自治会の金城雅春会長は語気を強める
同様の議論や葛藤は数多くあった。「静かに暮らしているのに」「なんで今さら」。さげすまれ、迫害され、息を潜めて生きざるを得なかった回復者から、歴史資料館という響きに不安が上がるのは当然だ
だが古里、戸籍、名前、明日を失い、授かった子を殺され、自殺や過酷な作業で仲間を亡くした人々の尊厳は、見えない形で今も奪われ続けている。「今、やらねば」の思いが実を結んだ
同園入所者の平均年齢は83歳。「忘れてはならぬ」「もうそっとして」。心は千々に乱れるが、消えゆく負の歴史を残す時間は少ない。今も心身の痛みに涙を流す人々が、それでも後世に伝え残す事実の重みを忘れてはならない。(儀間多美子)(記事原文はこちら)
琉球新報6/16社説より
愛楽園交流会館 負の歴史見詰め共生育もう
90年にも及ぶ国のハンセン病隔離政策は患者の人生を奪い、偏見と差別を社会に根付かせてしまった。過ちを繰り返さぬよう負の歴史を見詰め、継承することが、患者や回復者に報いる道である。
ハンセン病に関する誤った認識や強制隔離政策の歴史を後世に伝える資料館として国立療養所沖縄愛楽園の交流会館が開館し、記念シンポジウムが開かれた。
患者がたどってきた苦難の歴史、回復者を取り巻く環境を学ぶ拠点施設として活用されることを期待したい。
交流会館は「私はおうちへ帰れなくなった」を重要なテーマに掲げている。1907年制定の法律「癩(らい)予防ニ関スル件」に始まるハンセン病患者の強制隔離政策が生んだ悲劇を指している。
隔離政策は31年制定の「癩予防法」、53年制定の「らい予防法」に引き継がれた。96年に同法が廃止されるまで、国は患者を強制隔離する政策を続けたのである。
社会から遮断し、施設に閉じ込める政策は患者を人間として扱わないに等しい。施設内での婚姻は断種、堕胎が条件とされた時代もあった。患者の未来を断つような人権侵害がまかり通った。
ハンセン病は感染力が弱い。43年には特効薬が米国で開発され、戦後日本に入ってきた。医学的な根拠が希薄であるにもかわらず、隔離政策を長引かせた。国の責任は極めて重大である。
隔離政策が敷かれている間に戦争があったことを忘れてはならない。沖縄愛楽園では、壕の構築に動員された患者が病状を悪化させたという証言がある。宮古南静園では、100人余の患者が飢えに苦しみ、命を落とした。偏見や差別にさらされた患者は戦禍の中で二重の苦しみを背負ったのである。
現在、患者や回復者が生きやすい社会を実現できているか検証が必要だ。偏見や差別の払拭(ふっしょく)に向けた啓蒙(けいもう)活動、回復者の社会参加の支援など、隔離政策の過ちを償うための不断の取り組みが求められる。
その前提として、ハンセン病の歴史と向き合うことが求められる。沖縄愛楽園と宮古南静園が編さんした「沖縄県ハンセン病証言集」など貴重な資料もある。
交流会館は学びの場であると同時に、患者や回復者と私たちが語り合う場にもなるはずだ。差別や偏見を超え、共生の未来を育むための拠点としたい。(琉球新報6/16、記事原文はこちら)